ヒルティ名言集④

人間が神をよろこぶのではなく、神が自分のようなものをよろこばれ、またよろこんでくださることができるということ、これこそ立派に成就された人生の正しい完結である。

(岩波文庫版『幸福論』第3部 357ページ)

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高校生とKJ法

今日、実はいつも以上に学校で仕事するのが楽しみでした。

新たな試みをやろうと思ったからです。

 

それは、高校生とKJ法の授業をする、ということです。

KJ法とは、アイデアを出す方法。

川喜田二郎氏によって『発想法』で提唱された方法です。

私も中公新書で読みました。

 

付箋などに思いつくフレーズを書き、
周りの人の付箋を共有し、
近いものを重ねていって、
その固まりのタイトルを書く、というものです。

以下のサイトが参考になると思います。
http://www.atmarkit.co.jp/aig/04biz/kjmethods.html

厳密にはKJ法は文章で書き、厳密に方法を守りながらやっていくものです。

ですが、「厳密すぎると誰も出来ない」ため、あえて崩して今日は授業をしました。

 

さて、今日は「携帯電話のいい面・悪い面」をテーマに、グループごとにKJ法で話し合いをしました。

通常、学校ではとにかく「話し合いをしよう」と呼びかけるばかりです。

その結果が、「声の大きい人の意見が通る」現状と、
「なんでも多数決で意見をまとめてしまう」現状の氾濫です。

声が出しにくい人にも、
じっくりものごとを考えたい人にも 適切な議論の方法はないだろうか?

考えた答えとしてのKJ法の授業でした。

 

通常のとにかく「話し合いをしよう」形式よりも意見が出やすかったのを実感しました。
他人の意見と「近い」点を探していくので、話を聴き合う練習にもなりました。

なによりも、話し合いの際、楽しそうな雰囲気のあるディスカッションになりました。

 

よく「いまの子どもは話し合いが出来ない」ということを聞きます。

ですが本当に大切なのは「話し合いが出来る方法論を伝えているか」という教員の側の問いかけです。

 

無論、今日の授業も課題がないといえば嘘になります。

議論の仕方の方法論も含め、自主的に話し合いができる環境設計をやるのが教員の仕事だなあ、と思った今日一日でした。

 

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【読書会】イリイチ『脱学校の社会』第1章

大学時代、友人と『脱学校の社会』の読書会をやっていました。
めちゃくちゃ面白く、次第に議論が深まっていくことが分かりました。

それが「原点」となって、「教育系のイベントをやりたいなあ」という思いにつながっていきました。

教育現場で働く側になったいま、再び『脱学校の社会』の読書会をスタートしました。
場所はシェアハウスのBUIE。

シェアハウスの友人と一緒に第1回目を本日開催しました。

学校にいくことで人々は、〈学んだことは教えられたことの結果だ〉という転倒した価値を持つようになる。そういったイリイチの発想に「シビれる」場となりました。

ディスカッションになったのは、イリイチの言う「ドリル学習」(反復学習)の意味について、です。ドリル学習を勧めるのは「自由な学び」を求めるイリイチと矛盾するのではないか、と議論しました。

重要なのは『脱学校の社会』1章の始めでイリイチが述べているように、
過程(目的)と手段を混同しないということです。

大学に入るのが教育の目的ではなく、自分として楽しい人生を生きれるようにすることが 教育の目的です。そのあたりを混同すると、「大学に入るための教育」に終始してしまうことになります。

これはちょうど「目的状況相関的方法選択」と近い発想です。
目的に応じてやり方を変える。
だからこそ方法論は多様な方がいい、という考え方です。

詰め込み的な「反復学習」と、人と人とが出会うことによる「学びのためのネットワーク」(learning webs)を同一の本で扱うイリイチの、一見矛盾した態度。それを解決する鍵はここにあります。

要は、一人ひとり、「合う」教育は違う、ということです。
にも関わらず、「学校」は同じやり方で教育を受けることを要求します。
いじめがあっても、クラスが合わなくても、そこで授業を受けなければ成績が悪くなります。

イリイチは、人によって違う教育を提供すべきだ、と考えていたのではないでしょうか。
だからこそ、「ドリル学習」と「学びのためのネットワーク」という矛盾するような教育のアイデアを提唱したのだと思います。

人によって、合う教育は違う。
だからこそ、教育の側が多様であるべきだ。

イリイチの思いが伝わってきます。

(余談ですが、イリイチがメキシコでやっていた教育機関も、資金源としてスペイン語の「ドリル学習」塾をやりつつ、「学びのためのネットワーク」にもとづく「市民大学」「自由大学」とでも呼べる研究所を経営していたことも、この拙文に関係するように思われます)

☆第2回目読書会は『脱学校の社会』のハイライトである6章をやります。
2012年6月30日22:30-23:30、シェアハウスBUIE学園前の2Fワーキングスペースで行う予定です。

参加希望の方は御連絡ください。

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映画『外事警察』

組織と個人との関係は、古くからのテーマです。
個人の意図を超え、「組織悪」とでも呼ぶべき状況が発生する。
その難しさが組織と個人との間にあります。

『外事警察』はある意味国家のつくった「魔物」とでも呼ぶ主人公と、
雇い主である上司や彼の部下たちの関係性が描かれています。

渡辺篤郎演じる主人公は、笑顔と脅しを演じ分け、相手をコントロールしつつ目標を達成します。
「相手の「怒り」をうまく利用することが外事警察の基本だ」というセリフがそれを物語っています。

北朝鮮と原子力爆弾の製造、ウランの密輸などがテーマになり、なかなかスリリングな展開が続きます。

ですが、この映画を観ていて腑に落ちないのは、「なんのために主人公が働いているのか」全くわからない点です。

ゴルゴ13的に、自分の感情を出さない人物だからです。
公安は「国益」を守る仕事ですが、何をもって「国益」というか、それが不明確なままです。

抽象的ではっきりしない「国益」とは、一体何か?
一度明確にする必要がありそうです。

なおNHKでやっていたときの作品はこちらです。

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マルクス・アウレリウス名言集④

ほかのものは全部投げ捨ててただこれら少数のことを守れ。それと同時に記憶せよ、各人はただ現在、この一瞬間にすぎない現在のみを生きるのだということを。

(岩波文庫版『自省録』43ページ)

マルクス・アウレリウス名言集②

隣人がなにをいい、なにをおこない、なにを考えているかを覗き見ず、自分自身のなすことのみに注目し、それが正しく、敬虔であるように慮る者は、なんと多くの余暇を得ることであろう。[他人の腹黒さに眼を注ぐのは善き人にふさわしいことではない。]目標にむかってまっしぐらに走り、わき見するな。

(岩波文庫『自省録』55-56頁)

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