港は「外」に開かれている。

ずっと前、フランスの社会学者・ジンメルの書いた「取っ手」論を読んだことがある。
「取っ手」は新たな世界への扉(=「彼岸」)とこちらがわ(=「此岸」)とをつなぐ働きをしている、と。

…それがどうした!というレベルの話ではあるが、
言わんとすることはよく分かる。
要は「取っ手」こそ、「外」を内包した「内」、つまり他者を混ぜ込んだ自己の象徴である、ということだ。

今回、帰省で故郷・兵庫に戻った。
兵庫は「港」として使われた神戸によって発展した場所である。

港は「外」に開かれている。
異質な「他者」の存在を受け入れている。

その点で港は半分「外部」でもあり、半分「他者」でもある。

「外部」「他者」を自己のうちに混ぜ込んでしまうのが、「港」を持つ街の強みであろう。
港自体が「開放系」として機能しているのである。

「取っ手」に触れることで新たな世界が広がる。
都市における「取っ手」は港であった。

なぜこういったことを書くのか。
それは正月休み明け特有のメランコリーを解消する、という目的のためである。

人間、どういう時にメランコリックになるのかといえば、
自身の眼差しが「自己」、すなわち「内」に向いている時であろう。

自己に眼差しが向かう時、そこに「他者」や「外部」は存在しない。
その苦痛を「なんとかする」には「取っ手」や「港」同様、
自己のうちに「他者」や「外部」を受け容れようとする努力が必要となる。

港は「外」に開かれている。
その姿勢を、メランコリックになりがちな時期にこそ学んでいきたい。
それこそ自己の問題解決の「取っ手」となるであろう。

kobe
実際、自分はかねてより「行き詰まり」や「生きづらさ」を感じる度、
「港」に向かい、海を見つめてきた。

小樽・函館・苫小牧・神戸・仙台・富山・神戸・上海と、「無意識」に向かった「港」は数多い。
「港」は「外」に開かれているゆえに、異質な「他者」をも受け容れようとする。
その姿を目にすることで、自己の視点を外部に向けさせてくれるのである。

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