札幌で私が得たもの。

いま私は「スーパーとかち」7号の車内にいる。

今晩からは私の「帯広」勤務が始まる。
札幌でやり残したことも多いが、
「新たな場所で、新たな決意で」やっていこうと思う。

札幌生活の「まとめ」として、
札幌で私が得たものを考えていきたい。

1,「教員」としての経験を積んだ。

2年前の私は右も左も分からない「新人」。
そこで2年生の担任をして、なんとか卒業式まで送り届けることができたい。

2,スープカレーの「旨さ」の学習をした。

東京時代、「東京らっきょブラザーズ」という謎な名前のスープカレー屋があった。
(地下鉄早稲田駅そば。まだあるのだろうか)

そこで初めて「スープカレー」というものを食べたのだが、
「何、このルー? スープじゃん!」
「なんでこんな野菜がまるっと入っているの? 一口サイズにすべきじゃん」
「だいいち、これ、ご飯にかけるの? 食べ方が謎!」
…いま考えると、スープカレー好きに叱られそうな第一印象だった。

札幌では休みのたびにLaviなり「すあげ」なりに行くようになり、
スープカレーの「旨さ」を学習した。

3,雪がゴミであることを学習した。

それまでの私は、雪というものは
「降っても翌日には消えてなくなる、はかなき存在」
だと思っていた。

兵庫も東京も、雪というのは「そんなもの」だった。

そのため、「除雪」が必要なほど降り、
「排雪」が無いと生きていけない社会が在ることに驚いたのであった。

4,自分から動くと、どこかで人が「つながる」ことを学習した。

札幌でちょっと動くと、
「あ、あの人知ってますか? ああそうですか、私もよくあの人とイベントするんです」
と、「知っている人」と「目の前の人」がつながる瞬間が幾度と無くあった。

東京時代には考えられなかったことである。

5,シェアハウスはなんだかんだ「楽しい」ことを学習した。

札幌時代、地下鉄学園前駅のシェアハウスに住んでいた。
深夜に帰ってきても、リビングでは飲み会をやっているという「経験」は、
ある意味で生き方を変えてくれた。

半年もいると「長く住んでる人」扱いになり、
2年で退去する時には「めちゃくちゃ長くいる人」という扱いになった。

職場コミュニティ以外に、「ビジネスでもイベントでもないコミュニティ」に入れたことが一番の収穫だった。
シェアハウスの仲間の話を聞き、いろいろ身の振り方を考えることもできた。

・・・あげてみれば、いろいろなものを私は札幌から得たような気がする。
次の帯広では私は何を得ることができるのか。
むしろ「いろいろ獲得してやる!」決意で臨むのが良いだろう。

伊藤進, 2005, 『ほめるな』講談社現代新書。

教育の現場の中では「ほめる」ことが重視される。
はたしてそれが「無条件でいいこと」なのか?

本書の課題はそこにある。

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筆者は単に褒めることを「道具的条件づけ」と定義し、それが動物の調教と同じだ、と指摘する。

「道具的条件づけは、動物や人間をコントロールする方法です。強化という手段を使って、相手をこちらの思い通りに行動させようとするテクニックです。相手に自主性をもたせ、将来的に自立させようとするどころか、それとは逆に、指示にしたがって動く受動的な存在をつくり出すものといえます。
したがって、「ほめる教育」は、教育の根本目的に照らすなら、大きな弊害をともなうものだといわざるをえません。子どもたちにとってもっとも大事な自立する力を育てないどころか、指示にしたがってしか行動できないいわゆる「指示待ち人間」をつくり出してしまう可能性が高いのです」(43-44頁)

「「ほめる教育」でつくられる意欲は決して本物の意欲ではなく、つねにほめることによって支えてやらないとだめな意欲なのです」(44頁)

「ほめることによって、価値があるんだと認めてやる。あるいは、価値を付与する。もうおわかりのように、裏返せば、これは、「ほめられなければ価値がないんだ」というのと同じことです。実質的に、そういう価値観に立っているということなのです」(48頁)

「わたしは内発的動機づけのことを、ニックネームで「アモーレ情熱」と呼んでいます。「アモーレ」はイタリア語で「愛」です。つまり、アモーレ情熱は「好きだからそれをするんだという純粋な情熱」です。
一方、「外発的動機づけ」は、活動の結果として得られるなにかを目的とするモティベーションです」(61)「こちらのほうのニックネームは、「ギリチョコ情熱」です」(62頁)

「すこしでもいいところを見つけてほめるという行為は、子どもたちの活動にたいして心理的な報酬としての役割をはたします。そしてそのことから、活動にたいするアモーレ情熱をそこなってしまう危険性をもつのです」(72頁)

「本人がアモーレ情熱にもとづいてやっていることにたいしては、なるべくほめたりしないようにすることです。かりに本心からほめたい気持ちになったとしても、それをぐっと抑えるようにする。大事なアモーレ情熱をはぐくむには、大人があまり介入しないほうがいいのです」(89頁)

本書で重視するのは、単なる「ほめる」教育ではなく、「ほめる」も「叱る」もする「インタラクティブ型支援」を提唱するところである。
要は「コミュニケーション」、だ。

ほめる関係性は「教員-生徒」の一方通行の関係性となる。
いわゆる「預金型教育」(フレイレ)に近い。
教員が一方的に指導・教授をし、生徒がそれを受け取る。
それに対し「よくできました」「すばらしい」という評価をするだけの関係。

フレイレは「預金型教育」から「対話型教育」への転換を主張している。
これは本書で言う「インタラクティブ型支援」と言えるであろう。

「教員-生徒」の双方向型の教育へ。