文章を綴るということ。

かつて私は、演奏会に行くと、
というか、演劇・お笑いなど、何らかの表現を観に行くと、
私はいつもどうしようもなく「暗く」なった。

演奏する「あちら」側に、絶対に行けないという思い。
「あちら」側に行って騒ぎたいが、それが出来ない自分。

そんなことを感じていた。

今日ジャズライブに行き、気づいたことがある。
それは自分にとって、「アツくなったものは何か」という問いと、それへの答えだ。

大学生時代、私は何にアツくなったか。
それは書くことであり、講演会の企画であり、ブログの更新である。

小林秀雄は演奏をしなかったが、モーツアルト論を書いた。
いまだに古典となっている。
私は演奏も、スポーツも、映画を撮ることもできないまま育ってきたが、
唯一ブログを書くことぐらいはできる。

言語表現については、「それなり」にできるはずだ。

だからジャズを演奏するように、
映画を監督するように、
スポーツで結果を出すように、
研究者が試験管を振るように、
文章を書く。

大学院時代、耐えられないほどの悩みや苦しみを癒してくれたのは、
「文章を書く」という行為それ自体であった。

ある意味、文章に救われたのである。

研究に行き詰まり、
西焼津のビジネスホテルの屋上から真下を見下ろした時の思いは未だに残っている。

どういう経緯で立ち入り禁止のホテル屋上に上がり、
塀を乗り越えるところまで進んだのかはもう覚えていない。

覚えているのは、西焼津のビジネスホテルの下から吹き上げる潮風と、
ただ真っ暗な地上、なんとなく見えた水平線の輝きである。

「あと一息」のところで、飛び降りそこねている。

そんな時も、ホテルの部屋でPCに文章を綴っていた。
文章を書くという行為が、私を救ってくれたのだ。

まあ、個人的感慨を言ってもキリがない。
研究者の道をさしあたり断念したときも、帰ってからPCに文章を綴っていた。

文章を書くこと。
それは私にとって生きるための道具(Tools for conviviality)であった。

知らない間にブログ文体になったのも、そのせいである。
(心の揺れを描くのに、ブログ文体はいい間を生じさせることができる)

・・・まあ、ひと様によんで頂ける文章を書く力を、もっと付けないといけないんだけどね。

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