『現代思想』2014年10月号特集「大学崩壊」に思うこと。

本日11/8(土)、毎月やっている読書会で『現代思想』という雑誌の「大学崩壊」特集号を元に議論を行います。

それにあたってのメモを。

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・いろんな議論が出ているが、主になっているのは次の3つ。

①「国立大学法人化と、学長のトップダウン強化によって大学が自主性を失い、文部科学省ないし政府の意向をただ伝えるだけの組織になっている」

②「グローバル化が叫ばれ、新たな部局を作成する大学増えているが、その中身は「外国人教員を~~人雇う」レベルの対応となっており、それで問題が解決するのか。またそもそもその対応で正しいのか」

③「非常勤講師の雇い止めなど、非常勤講師をめぐる勤務状況は厳しくなっている。専任の教員との間の待遇差が広がっている」

これら①~③から考えて、「改めて、本来、大学はどうあるべきか」の問い直しの必要性を本書は訴えている。

まず考えるべきことは、大学のあり方は進学率など社会状況によって変わる、という点である。

マーチン・トロウは大学をエリート段階・マス段階・ユニバーサル段階の3段階に立てわける(『高学歴社会の大学』)。

進学率15%までのエリート段階、50%までのマス段階、それ以上のユニバーサル段階だ。

日本は現在「ユニバーサル段階」に到達している。

いわゆる、「大衆教育社会」(苅谷剛彦)だ。

それぞれの段階に応じて、大学に求められるものは変わっていく。

人類はエリート段階での大学にだいぶ慣れ親しんできた。
それが戦後しばらくでマス段階(大学紛争の際言われた「マスプロ教育」とは、この段階のときのことである)に達する。

60年代の大学紛争。
安田講堂に立てこもったのはimgres-1現代史の教科書に載っている出来事だ。

 

その当事者たちが感じていた思い。

「大学に入るともっと学問の自由を謳歌できると思ったのに、数百人一度に教えるマスプロ教育と、卒業後すぐに「企業戦士」となる未来しか描けない」

「けっきょくは日本という社会の中の歯車にしか過ぎない自分自身」

このような彼らの満たされない思いが、マルクスの洗礼で火炎瓶なり、歩道の敷板を剥がしての戦いなり、大学封鎖なりにつながっていった。

彼らの不幸は、大学がすでにマス段階に達しているのにもかかわらず、彼ら自身の思いが「エリート段階」の大学が担っていたものであったことがそもそもの原因である

一対一で教授と学生が共に学問をし、
世情のことを無視して象牙の塔にこもってひたすら思索できた時代。

そんなものは幻想なのだが、「エリート段階」の大学の理想はそこにあった。

日露戦争勃発を知らなかった帝国大学教授がいた、という話など、まさに古き良き象牙の塔の時代の話である。

マス段階の大学に進学した、大学紛争当事者たちは、大学に「エリート段階」の幻影を求めていたのである。

そんなものはすでに時代遅れになっているにもかかわらず。

さて。

大学の役割は「マス段階」から、進学率50%突破の「ユニバーサル段階」に達した。

大学だけで見れば、それは2002年ごろ。
割と最近、日本の大学は「ユニバーサル段階」に達している。

いまの日本の大学を巡る状況は、大学関係者以外はいまだマス段階の発想でもある。
大学紛争当事者の悩み同様、そこが今の日本の大学の不幸をもたらしている。

例えば。
(1)「大学入学は厳しいから、もっと個人を評価するシステムにすべきだ」という言説。

いまや日本の大学はAO入試や推薦入試で6割もの学生が合格する。
筆記試験で合格を果たす学生は少数派になりつつある。

これもマス段階の発想である。

(2)「大学院に入り、脇目もふらずに研究に励めばそのうち専任講師や助教授・教授になれる」という言説。

これもマス段階の発想である。
10年前に比べ、大学院修士課程に進学する学生数は2倍になった。
しかし、大学での勤め先の数はほとんど変わっていない。
非常勤講師の待遇も悪くなったほか、大学院生が「つなぎで仕事する」場所の定番だった専門学校や予備校も、少子化のため減少している(東進ハイスクールのように、DVD授業をする予備校も増えているし)。

だから脇目もふらずに研究に励んでも、「よっぽど」でなければ、専任講師にも助教授にもなれないという時代が来ている。
なれたとしても、それは研究職を期待されてのポストではなく、「生徒の就職指導ができる」「教育実習のための指導・援助ができる」「学生支援ができる」、挙句の果ては「バスが運転できる」ということだけを期待されての仕事口であったりもする。

私が博士課程進学を断念し、通信制高校教諭の道を選んだのも、「こんな」理由がある。
ただ、教職という進路は職にあぶれた大学院卒業生たちの流れる「社会的受け皿」でもある。
教育的熱意を持たない大学院生がデモシカ教員になっていないかが不安な限りである。

このように、大学に関するすべての不幸の始まりはマス段階・ユニバーサル段階であることを無視して議論をするところから起きているのだというのが私の仮説である

一度、その発想からいまの大学に関する言説を洗いなおし、「現象学」的まなざしで検討を重ねることが必要であろう。

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