苫野一徳, 2014, 『「自由」はいかに可能か 社会構想のための哲学』②

哲学。
もともと私は哲学を〈世界観をそれぞれの視点に基づいて理論化したもの〉だと思っていた。

そのため、知り合いから「教育の原理論・目的論を現象学を用いて哲学を確立した人がいる」と聞いた時、「そんな人はいない」と即座に思った。

ちょうど私がラディカルな思想家イバン・イリイチ研究を大学院でやっていこう、と思っていた時期のことである。

220px-Ivan_Illich_artwork_1ちゃぶ台返しの得意なイリイチ(写真)は、「学校」を否定し、晩年には「教育」を否定する。
そして資本主義社会が、貨幣化出来ない「シャドウ・ワーク」によって支えられている点で、本質的に不平等であることを明らかにした。

イリイチにかぶれていたからこそ、よけいに教育の原理論・目的論の確立などということは「不可能」と思っていた。

しかし。

本書の著者・苫野一徳氏はそれをやってのけている。

方法論は現象学。
「自由とはなにか」
「誰もが納得できる原理論はなにか」
「教育で言うならば〈ゆとり教育か詰め込み教育か〉という〈あれかこれか〉の議論よりも、〈教育の本質的な目的はなにか、そのために何ができるか〉を目的状況相関的に判断することが必要」

・・・明快さを備えた議論を繰り広げる『どのような教育が「よい」教育か』を読んだ際、目が覚める思いがした。

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さて、本書は「教育」ではなくさらに範囲を「そもそも」論に持って行き、「自由」について議論する内容。

『どのような教育が「よい」教育か』は、「自由の保障と自由の相互承認」をキーワードに教育を解き明かしていたのに対し、本書では「自由の原理論」それ自体をさぐっていく。

しかも哲学のジャーゴンを抑え、解明に。

わたしたちは、諸欲望によって規定されながらも、なおそこにおいて「我なしうる」と感じられることがある。わたしたちが「自由」を感じるのは、まさにそのような時なのだ。(81)

 

日々、わたしたちは様々な規定性の中を生きている。しかしその上でなお、この諸規定性を乗り越えた時、あるいは乗り越えられるかもしれないと感じた時、わたしたちは「自由」を感じる|ことができるのだ。(82-82)

 

 欲望の対象は様々だが、どのようなものを欲するにせよ、わたしたちはそのような欲望を持ってしまっている時点で、常にすでに「自由」を欲している。諸欲望に規定されているということは、つまり同時に、この諸規定性から「自由」になりたいと欲しているということなのだ。
これが、人間的欲望の本質は「自由」であるという言葉の意味である。(89)

「自由」の本質は特定の状態にではなく、わたしたちの”感度”にあるのだ。繰り返し述べてきたように、「諸規定性における選択・決定可能性」の”感度”、これこそが「自由」の本質なのだ。(102)

「自由」について考察するだけでなく、政治・経済などの分野での社会構想に「使える」原理を出していく。

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このことは、やっぱり凄い、と思う。

☆余談ですが、苫野さんとは大学の学部学科、大学院の研究科も同じ、文字通りの先輩にあたります。うちの教育学部も、なかなかやるもんです。

 

自習室の哲学

自習室に居ると、なぜか勉強が進むのはなぜだろう。
高校時代、よく学校の自習室に行っていた。

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図書館だと、「本」の誘惑がある。
家では「布団」の誘惑がある。

そんなわけで、自習室のカビ臭い香りを嗅ぎながら勉強をしていたものだった。

昔から私は一人だけではあまり勉強する気が起きなかった。
でも、近くに誰かが勉強している自習室では学習が進んでいた。

最近には「有料自習室」も多く存在しており、「月8000円で使い放題」というところもある。

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社会人になってからも自習室は求められている。

なぜ、一人では学習は進まないのだろう?
なぜ、近くに勉強している人がいると学習が進むのだろう?

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私がよく言う話だが、勉強の困難さは「インプットと結果が出るまでの期間の長さ」によって起こる。

英語を勉強した翌日、英語がペラペラになっていれば誰でも英語を勉強する。
漢字を1日でも勉強しないと、翌日漢字が書けなくなっているのなら、誰でも漢字を学習する。

なぜか?
それは「インプットと結果が出るまでの期間の長さ」が短いからだ。

1日真剣に勉強しても、結果が出るのは先である。
手応えがない。
そのため、「まあ勉強しなくてもいいか」となっていく(行動分析学)。

一人では学習が進まないのは、一人で学習するよりも遊んだり寝たりするほうが楽だからである。

「自習室」は、そこに「ただ近くで勉強している他者」を与えてくれる。

一人で勉強することはつまらない。
しかし、他者がいることで「自分はこれでいいのか」という視点が入る。

自習室でただ他者が近くにいる(=共在状況)ことにより、視点がメタ的になるのである。

自習室で勉強が進むのは、自分をより高い場所から見つめた「メタ視点」が提供されるためである。

他者がただいる。
それだけで人はメタ視点が内包される。

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自習室はそんなことを教えてくれる。

 

 

教育名言集④〜姿を消すことの大切さ〜

差し出がましい熱意と同様に、教育過剰はどんなものでも慎むべきだろう。教育学者の悪い癖の一つは、教育学を振り回しすぎることであるから。潮時を見て姿を消すことを知るべきである。われわれの生徒たちにとっては、これから個人的な生の冒険が始まろうとしており、それはそれなりに一つの教育となっていくだろう。そして今や生きることそれ自体が、彼らの偉大な教師となっていくのである。

(モーリス・ドベス『教育の段階』202頁)

フランク・スミス『なぜ、学んだものをすぐに忘れるのだろう?』より。

「学校での問題は、「生徒が学んでいない」ということではなく、「彼らが何を学ぶのか」である」(13)

「役に立つ学びというのは、普段の生活から時間を割いて真剣な学習に取り組む時に起こるものではない。学びとは、私たちの普段の生活に不可避な行為であり、役に立つ学びは、私たちが普段の心構えでいる時にのみ行われる」(19)

「逆説的だが、暗記しようとする努力は理解を破壊してしまうので、結局は暗記を妨げてしまう」(143)

「どんな学校であれ、自由化された学校の本質は、「コミュニティであること」です。校長、教師、アシスタント教師、そして生徒といった階層社会ではなく、おもしろい活動に取り組むために人びとが集まる場所であるべきなのです」(168)

 

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マルクス・アウレリウス名言集②

隣人がなにをいい、なにをおこない、なにを考えているかを覗き見ず、自分自身のなすことのみに注目し、それが正しく、敬虔であるように慮る者は、なんと多くの余暇を得ることであろう。[他人の腹黒さに眼を注ぐのは善き人にふさわしいことではない。]目標にむかってまっしぐらに走り、わき見するな。

(岩波文庫『自省録』55-56頁)

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