更新されないブログと、消え行く過去と。〜シャッター街とブログを考える〜

ネットでリンク欄を辿っていく。

一定の確率で、「1年以上更新されていないブログ」や「リンク切れ」に出会います。

そのたび、なぜか行き場のないやるせなさを感じてしまいます。

この感じは、観光でいった地方都市のシャッター街をみるのと近いです。

シャッター街は、少なくともその地に「商店」が存在したことを証明します。

シャッター街よりも残念なのは、コインパーキングだらけになった歯抜けの商店街と、東京の下町の商店街などで「シャッター」自体をなくし、その場を住宅として普通に住んでいる場合です。

シャッター街には、まだ「地域活性化」なり「空き店舗事業」なりの「何とか出来るかも感」が残っているからです。

さて、さきほど更新のないブログをシャッター街に例えました。

そうです、更新すればブログは「地域活性化」なり「空き店舗事業」なりに化けることができるのです。

更新していないブログは、流れの淀んだ池と同じです。
ただ腐っていくのを見ていくだけです。

そんなブログに、少しでも流れを入れていく。
「地域活性化」と同様、人の流れのないところに流れを入れていくことで、新たな価値が発見されることもあるはずです。

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苫野一徳, 2014, 『「自由」はいかに可能か 社会構想のための哲学』②

哲学。
もともと私は哲学を〈世界観をそれぞれの視点に基づいて理論化したもの〉だと思っていた。

そのため、知り合いから「教育の原理論・目的論を現象学を用いて哲学を確立した人がいる」と聞いた時、「そんな人はいない」と即座に思った。

ちょうど私がラディカルな思想家イバン・イリイチ研究を大学院でやっていこう、と思っていた時期のことである。

220px-Ivan_Illich_artwork_1ちゃぶ台返しの得意なイリイチ(写真)は、「学校」を否定し、晩年には「教育」を否定する。
そして資本主義社会が、貨幣化出来ない「シャドウ・ワーク」によって支えられている点で、本質的に不平等であることを明らかにした。

イリイチにかぶれていたからこそ、よけいに教育の原理論・目的論の確立などということは「不可能」と思っていた。

しかし。

本書の著者・苫野一徳氏はそれをやってのけている。

方法論は現象学。
「自由とはなにか」
「誰もが納得できる原理論はなにか」
「教育で言うならば〈ゆとり教育か詰め込み教育か〉という〈あれかこれか〉の議論よりも、〈教育の本質的な目的はなにか、そのために何ができるか〉を目的状況相関的に判断することが必要」

・・・明快さを備えた議論を繰り広げる『どのような教育が「よい」教育か』を読んだ際、目が覚める思いがした。

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さて、本書は「教育」ではなくさらに範囲を「そもそも」論に持って行き、「自由」について議論する内容。

『どのような教育が「よい」教育か』は、「自由の保障と自由の相互承認」をキーワードに教育を解き明かしていたのに対し、本書では「自由の原理論」それ自体をさぐっていく。

しかも哲学のジャーゴンを抑え、解明に。

わたしたちは、諸欲望によって規定されながらも、なおそこにおいて「我なしうる」と感じられることがある。わたしたちが「自由」を感じるのは、まさにそのような時なのだ。(81)

 

日々、わたしたちは様々な規定性の中を生きている。しかしその上でなお、この諸規定性を乗り越えた時、あるいは乗り越えられるかもしれないと感じた時、わたしたちは「自由」を感じる|ことができるのだ。(82-82)

 

 欲望の対象は様々だが、どのようなものを欲するにせよ、わたしたちはそのような欲望を持ってしまっている時点で、常にすでに「自由」を欲している。諸欲望に規定されているということは、つまり同時に、この諸規定性から「自由」になりたいと欲しているということなのだ。
これが、人間的欲望の本質は「自由」であるという言葉の意味である。(89)

「自由」の本質は特定の状態にではなく、わたしたちの”感度”にあるのだ。繰り返し述べてきたように、「諸規定性における選択・決定可能性」の”感度”、これこそが「自由」の本質なのだ。(102)

「自由」について考察するだけでなく、政治・経済などの分野での社会構想に「使える」原理を出していく。

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このことは、やっぱり凄い、と思う。

☆余談ですが、苫野さんとは大学の学部学科、大学院の研究科も同じ、文字通りの先輩にあたります。うちの教育学部も、なかなかやるもんです。

 

大平亮介のセクマイ講座①

「20人に1人」LGBTを知っていますか?

みなさんの身の回りにはLGBTの当事者はいますか?

LGBTとは、レズビアン、ゲイ、バイセクシャル、トランスジェンダーの頭文字を取った性的マイノリティ(性的少数者)の人たちのことを指した言葉です。

電通総研が7万人を対象にした2012年の調査によると、5.2%はLGBTの当事者であることがわかりました。つまり約20人に1人は存在するということになります。

20人に1人ということは40人クラスであれば2人はLGBT当事者がいるということです。では、なぜその存在は気づかれにくいのでしょうか?

要因の一つとして「カミングアウト」の問題があります。
カミングアウトとは、家族や友人、先生など、身近で親しい間柄の人に、異性愛者ではないことを伝えることです。

いわゆる「オネエ系」に代表されるように日本では、LGBTが嘲笑の的になりやすく、そういった環境に置かれた当事者たちは、「偏見の的になるのではないか」「今までの関係性が崩れるのではないか」という不安から、なかなかカミングアウトできずにいることも多いようです。そのため、なかなか存在に気づきにくいのです。

異性愛的な価値観を前提とする社会において、LGBT当事者はそれぞれの生きづらさを抱えています。
たとえば、思春期になると、周囲で恋愛の話や異性関係の話が頻繁に出てきますので、自身のセクシュアリティ(性のあり方)について強く意識するようになります。
こうした中で、カミングアウトのできない当事者は、異性愛者として振る舞うことを余儀なくされます。そこから葛藤やストレスが生まれ、ますます孤立感を深めてしまうという悪循環に陥りやすくなります。

では、こうした生きづらさを解消するためには、どのような方法があるのでしょうか?
一つの方法として、周囲からLGBTへの肯定的、受容的な環境をつくることが挙げられます。

具体的にはLGBTへの理解、支援をする人たちを「Ally(アライ)」を増やしていくことです。Allyの人が周囲の人々にLGBTに対する肯定的な態度やメッセージを発することで、徐々に理解が深まるのではないかと思います。

今回、こうしてブログでLGBTに関する情報を発信することで、Allyの人が増える小さなきっかけになるかなと思って書かせていただいております。

みなさんもAllyになってみませんか?url

 

大平亮介

苫野一徳, 2014, 『「自由」はいかに可能か 社会構想のための哲学』①

「自由」はもはや時代遅れの価値になってしまったのだろうか?
わたしはそうは考えない。むしろわたしの考えでは、「自由」に代わる価値をいくら提示したところで、それは常に「自由」の一条件にすぎないものである。(…)あえていいたい。「自由」はわたしたち人間にとっての、最上の価値である。だれもが「自由」を欲している。そしてわたしたちにとって、それ以上の人間的価値はない。(7)

「フリースクール」や「自由な学び」が好きな私にとって、「自由」についての論述は非常に心惹かれるものです。

ちょうど、2/28(よく考えると、この日は著者・苫野氏の誕生日でもある)の「読書会@札幌-帯広」で議論する内容なので本書を読んでいます。

人間は、生きていると「自由」を本質的に求める存在。
そして、「自由」こそ、人びとの幸福を実現する概念でもある。

読書会を通じて、この点を今一度確認したいと思います。

「自由」の本質などあり得ない、それは多義的かつ操作可能な概念である、というのは、現代思想の常套句だ。しかし、言語の多義性・操作可能性は織り込み済みの”前提”であって、わたしたちはその上でなお、その”本質”を明らかにすることができる。わたしたちが様々な言葉(概念)を通してコミュニケーションを行い、そしてそこに何らかの了解可能性を「確信」「信憑」している以上、わたしたちはその概念の”共通意味本質”を、必ず直感しているからだ。それゆえわたしたちは、その内実を深く洞察する必要がある。(69)

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ノマド・スタディという発想

いつでも・どこでも学ぶ。

それがノマド・スタディ。

日本ノマド・エジュケーション協会として、それを実践していきたい、と思っている。

ビジネス書には今も昔も、10~15分ほど、あるいはそれより短い時間の「細切れ時間」「スキマ時間」に学習する、という姿勢が多く現れている。

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いつでも・どこでも学ぶためのアイテムには何があるのだろうか?

情報カード・・・梅棹忠夫『知的生産の技術』の時代からある情報処理の定番。

 いまだに高校生は「単語カード」を使っている。

 私も高校生時代は「京大式カード」というA5サイズのデカイ情報カードに覚えたい内容を書き、持ち歩いていたものだった。

 すぐに読め、どこでも見れるので、まさに「ノマド・スタディ」だった。

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iPodなど音楽再生機・・・手や目が空いていないくても、耳が空いていることは多くある。そんなとき、耳につけるだけでオーディオプログラムが聞ける。

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これらはすごく役立つものである。

しかし、これらには一つの落とし穴がある。

信号待ちの時間、エレベーター内や事務所の待ち時間でノマド・スタディをすることは陶酔感をもたらしてくれる。

空港でも勉強!

「おれはすごく勉強してる!」

「偉い!」

そんなささやかな感情を学習者に与えてくれる。

勉強の結果が出なくても、勉強による「見栄」をはれるという効果がある。

しかし、問題なのはそれで勉強した気になってしまうところである。

ノマド・スタディは人に学習する機会を与えてくれる。

しかし、それで満足してしまう弊害もある。

そうであるならば、あえて「細切れ時間」「スキマ時間」には何もやらず、「やらないとヤバイ」という切実感を自分に与え、家でガッツリ勉強することが役立ってくる。

そんな逆説もある。

自習室の哲学

自習室に居ると、なぜか勉強が進むのはなぜだろう。
高校時代、よく学校の自習室に行っていた。

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図書館だと、「本」の誘惑がある。
家では「布団」の誘惑がある。

そんなわけで、自習室のカビ臭い香りを嗅ぎながら勉強をしていたものだった。

昔から私は一人だけではあまり勉強する気が起きなかった。
でも、近くに誰かが勉強している自習室では学習が進んでいた。

最近には「有料自習室」も多く存在しており、「月8000円で使い放題」というところもある。

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社会人になってからも自習室は求められている。

なぜ、一人では学習は進まないのだろう?
なぜ、近くに勉強している人がいると学習が進むのだろう?

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私がよく言う話だが、勉強の困難さは「インプットと結果が出るまでの期間の長さ」によって起こる。

英語を勉強した翌日、英語がペラペラになっていれば誰でも英語を勉強する。
漢字を1日でも勉強しないと、翌日漢字が書けなくなっているのなら、誰でも漢字を学習する。

なぜか?
それは「インプットと結果が出るまでの期間の長さ」が短いからだ。

1日真剣に勉強しても、結果が出るのは先である。
手応えがない。
そのため、「まあ勉強しなくてもいいか」となっていく(行動分析学)。

一人では学習が進まないのは、一人で学習するよりも遊んだり寝たりするほうが楽だからである。

「自習室」は、そこに「ただ近くで勉強している他者」を与えてくれる。

一人で勉強することはつまらない。
しかし、他者がいることで「自分はこれでいいのか」という視点が入る。

自習室でただ他者が近くにいる(=共在状況)ことにより、視点がメタ的になるのである。

自習室で勉強が進むのは、自分をより高い場所から見つめた「メタ視点」が提供されるためである。

他者がただいる。
それだけで人はメタ視点が内包される。

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自習室はそんなことを教えてくれる。

 

 

祭儀の装置としての国家〜猪瀬直樹, 1983, 『天皇の影法師』〜

元号。

明治の次は大正。ではその次は?

いまの毎日新聞の源流・東京日日新聞はスクープとして「光文」と「号外」を出した。

・・・世紀の大誤報「元号光文事件」である。

毎日新聞が部数を読売・朝日に大きく負けはじめたきっかけとも言われているこの事件。

その裏側が詳しく書かれている本。

私が生まれた1988(昭和63)年あたりは「自粛ムード」ただよっていた時代。

1983年に発行し、新潮文庫から1987年に出た本書は、そのころの「目の前にある危機」としての時代の不安を映し出すリアリティを持っていたのだろう。

本書では大正天皇の崩御の際の話が出てくるが、昭和天皇崩御の際にも活躍した八瀬童子(やせのどうじ)。

天皇の棺をかつぐ伝統をもつ京都の一集落。(結果的に「国家」をかつぐことにもなった)

「近代国家」になってもこのような集団が存在しているのが、日本の「面白さ」でもある。

300px-Yase_Doji_in_training_for_the_transport_of_Sokaren_01http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E7%80%AC%E7%AB%A5%E5%AD%90

さて、この本は日本の「不思議さ」を天皇を切り口に明らかにする。

学生時代は西暦ばかり使っていたが、社会人になってあらゆる書類に「平成」を使うようになった私。

21世紀になっても独自の元号を使っている単独国なんて、もうほとんどない。

その「非合理さ」は、実は国家の重大な役割のためのものでもある。

「時代のある節目は、予定調和としてではなく、天皇崩御という個人の肉体の消滅とその消滅を弔う祭儀として突然訪れて、洪水のように過去を洗い流しながら、よりいっそう過去を心に刻ませる。国家的祭儀という同一平面で人びとは悲しみはなくても悲嘆を装い、喜ばしいことはなくても狂喜し、地殻変動のようにためられたエネルギーを放出する。国家の、生きもののような不可解な生理のひとつが、わが国の場合「天皇崩御」に集中的に現れてい|た。」(216-217)

☆ページ数は新潮文庫版のページ数です。

天皇という一個人の崩御が、一つの時代を急速に終わらせる。

明治も大正も昭和も、崩御という事実により人びとの認識を一変させてきた。

ものごとには、始まりと終わりがある。

宮台真司のいう「終わりなき日常を生きろ」との言葉。

「まったり」今を楽しむ姿勢が、ほぼ永遠に続くかと思ったときに3.11が起こり、秋葉原事件が起きた。

それにより、「終わりなき日常」に句読点が打たれていったように思う。

卑近な例では、天皇崩御により、これまで使っていたカレンダーや公的文書の元号欄、各種フォーマットをすべてリセットさせることになる。

それを通じて、人びとに一つの時代が確実に終わり、新たな時代の訪れを実感させることになる。

ここで思い出すのは、1990年代初頭のテレビにはやたら「平成」がついたということ。

「平成・天才バカボン」(1990年1月スタート。昭和期の「天才バカボン」のリメイク版)、「平成名物テレビ・いかすバンド天国」(1989年2月スタート。いわゆる「イカ天」)、「平成教育委員会」(1991年10月。今はなき逸見政孝がいい味出してました)エトセトラえとせとら。

これも、「来るべき新しき時代」を示す働きがあったのだろう。

「国家は祭儀を通して蘇り、そして消尽しつくす。現代文明の技術的理性が緻密な計算と計量によって構築する世界を、祭儀という生産的な蕩尽によって打ち壊すところに国家の存在意義があるかのようだ。この被虐的な快楽を味わう点に、人間がいまだに国家という枠にしがみつく最大の理由があるのではないか、とさえ感じられるのである」(218)

☆注:これは青木保の1982(昭和57)年7月15日付「朝日新聞」夕刊からの孫引き。

「自粛ムード」も含めて、国家の役割は祭儀にある。

卑弥呼の時代から政治は「まつりごと」であったことを思い出したい。

国家の非合理さには、実は「生産的な蕩尽」という側面があるのだろう。

そう、国家は絶えず祭儀を提供する装置でもある。

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追記

本書後半にも出てくるが、天皇崩御の際などの「恩赦」。
これまで計7回実施されている。
(昭和天皇崩御の際には行われておらず、戦後の「国連加盟」以降の実施はない)。

刑を言い渡すのが国家(=天皇)であり、
刑を許すのもまた国家である。
(象徴的には、誰を生かし、誰を死なせるかも決定できることになる)
フーコー的な権力理論を、文字通り本書では示しているのである。