【お知らせ】図書館司書・大平さんによる「セクマイ講座」連載予定

本「日本ノマド・エジュケーション協会」ブログですが、
基本的に事務局長の個人ブログとなっていました。

ですが、今年からは「日本ノマド・エジュケーション協会」の活動に協力してくださっている方にも、記述をお願いしていこうと思っています。

その流れで、大平さんによる「セクマイ講義」(=セクシャル・マイノリティ)を連載していただく運びとなりました。

ぜひ、ご覧いただければ幸いです!

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ノマド・スタディという発想

いつでも・どこでも学ぶ。

それがノマド・スタディ。

日本ノマド・エジュケーション協会として、それを実践していきたい、と思っている。

ビジネス書には今も昔も、10~15分ほど、あるいはそれより短い時間の「細切れ時間」「スキマ時間」に学習する、という姿勢が多く現れている。

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いつでも・どこでも学ぶためのアイテムには何があるのだろうか?

情報カード・・・梅棹忠夫『知的生産の技術』の時代からある情報処理の定番。

 いまだに高校生は「単語カード」を使っている。

 私も高校生時代は「京大式カード」というA5サイズのデカイ情報カードに覚えたい内容を書き、持ち歩いていたものだった。

 すぐに読め、どこでも見れるので、まさに「ノマド・スタディ」だった。

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iPodなど音楽再生機・・・手や目が空いていないくても、耳が空いていることは多くある。そんなとき、耳につけるだけでオーディオプログラムが聞ける。

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これらはすごく役立つものである。

しかし、これらには一つの落とし穴がある。

信号待ちの時間、エレベーター内や事務所の待ち時間でノマド・スタディをすることは陶酔感をもたらしてくれる。

空港でも勉強!

「おれはすごく勉強してる!」

「偉い!」

そんなささやかな感情を学習者に与えてくれる。

勉強の結果が出なくても、勉強による「見栄」をはれるという効果がある。

しかし、問題なのはそれで勉強した気になってしまうところである。

ノマド・スタディは人に学習する機会を与えてくれる。

しかし、それで満足してしまう弊害もある。

そうであるならば、あえて「細切れ時間」「スキマ時間」には何もやらず、「やらないとヤバイ」という切実感を自分に与え、家でガッツリ勉強することが役立ってくる。

そんな逆説もある。

自習室の哲学

自習室に居ると、なぜか勉強が進むのはなぜだろう。
高校時代、よく学校の自習室に行っていた。

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図書館だと、「本」の誘惑がある。
家では「布団」の誘惑がある。

そんなわけで、自習室のカビ臭い香りを嗅ぎながら勉強をしていたものだった。

昔から私は一人だけではあまり勉強する気が起きなかった。
でも、近くに誰かが勉強している自習室では学習が進んでいた。

最近には「有料自習室」も多く存在しており、「月8000円で使い放題」というところもある。

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社会人になってからも自習室は求められている。

なぜ、一人では学習は進まないのだろう?
なぜ、近くに勉強している人がいると学習が進むのだろう?

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私がよく言う話だが、勉強の困難さは「インプットと結果が出るまでの期間の長さ」によって起こる。

英語を勉強した翌日、英語がペラペラになっていれば誰でも英語を勉強する。
漢字を1日でも勉強しないと、翌日漢字が書けなくなっているのなら、誰でも漢字を学習する。

なぜか?
それは「インプットと結果が出るまでの期間の長さ」が短いからだ。

1日真剣に勉強しても、結果が出るのは先である。
手応えがない。
そのため、「まあ勉強しなくてもいいか」となっていく(行動分析学)。

一人では学習が進まないのは、一人で学習するよりも遊んだり寝たりするほうが楽だからである。

「自習室」は、そこに「ただ近くで勉強している他者」を与えてくれる。

一人で勉強することはつまらない。
しかし、他者がいることで「自分はこれでいいのか」という視点が入る。

自習室でただ他者が近くにいる(=共在状況)ことにより、視点がメタ的になるのである。

自習室で勉強が進むのは、自分をより高い場所から見つめた「メタ視点」が提供されるためである。

他者がただいる。
それだけで人はメタ視点が内包される。

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自習室はそんなことを教えてくれる。

 

 

祭儀の装置としての国家〜猪瀬直樹, 1983, 『天皇の影法師』〜

元号。

明治の次は大正。ではその次は?

いまの毎日新聞の源流・東京日日新聞はスクープとして「光文」と「号外」を出した。

・・・世紀の大誤報「元号光文事件」である。

毎日新聞が部数を読売・朝日に大きく負けはじめたきっかけとも言われているこの事件。

その裏側が詳しく書かれている本。

私が生まれた1988(昭和63)年あたりは「自粛ムード」ただよっていた時代。

1983年に発行し、新潮文庫から1987年に出た本書は、そのころの「目の前にある危機」としての時代の不安を映し出すリアリティを持っていたのだろう。

本書では大正天皇の崩御の際の話が出てくるが、昭和天皇崩御の際にも活躍した八瀬童子(やせのどうじ)。

天皇の棺をかつぐ伝統をもつ京都の一集落。(結果的に「国家」をかつぐことにもなった)

「近代国家」になってもこのような集団が存在しているのが、日本の「面白さ」でもある。

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さて、この本は日本の「不思議さ」を天皇を切り口に明らかにする。

学生時代は西暦ばかり使っていたが、社会人になってあらゆる書類に「平成」を使うようになった私。

21世紀になっても独自の元号を使っている単独国なんて、もうほとんどない。

その「非合理さ」は、実は国家の重大な役割のためのものでもある。

「時代のある節目は、予定調和としてではなく、天皇崩御という個人の肉体の消滅とその消滅を弔う祭儀として突然訪れて、洪水のように過去を洗い流しながら、よりいっそう過去を心に刻ませる。国家的祭儀という同一平面で人びとは悲しみはなくても悲嘆を装い、喜ばしいことはなくても狂喜し、地殻変動のようにためられたエネルギーを放出する。国家の、生きもののような不可解な生理のひとつが、わが国の場合「天皇崩御」に集中的に現れてい|た。」(216-217)

☆ページ数は新潮文庫版のページ数です。

天皇という一個人の崩御が、一つの時代を急速に終わらせる。

明治も大正も昭和も、崩御という事実により人びとの認識を一変させてきた。

ものごとには、始まりと終わりがある。

宮台真司のいう「終わりなき日常を生きろ」との言葉。

「まったり」今を楽しむ姿勢が、ほぼ永遠に続くかと思ったときに3.11が起こり、秋葉原事件が起きた。

それにより、「終わりなき日常」に句読点が打たれていったように思う。

卑近な例では、天皇崩御により、これまで使っていたカレンダーや公的文書の元号欄、各種フォーマットをすべてリセットさせることになる。

それを通じて、人びとに一つの時代が確実に終わり、新たな時代の訪れを実感させることになる。

ここで思い出すのは、1990年代初頭のテレビにはやたら「平成」がついたということ。

「平成・天才バカボン」(1990年1月スタート。昭和期の「天才バカボン」のリメイク版)、「平成名物テレビ・いかすバンド天国」(1989年2月スタート。いわゆる「イカ天」)、「平成教育委員会」(1991年10月。今はなき逸見政孝がいい味出してました)エトセトラえとせとら。

これも、「来るべき新しき時代」を示す働きがあったのだろう。

「国家は祭儀を通して蘇り、そして消尽しつくす。現代文明の技術的理性が緻密な計算と計量によって構築する世界を、祭儀という生産的な蕩尽によって打ち壊すところに国家の存在意義があるかのようだ。この被虐的な快楽を味わう点に、人間がいまだに国家という枠にしがみつく最大の理由があるのではないか、とさえ感じられるのである」(218)

☆注:これは青木保の1982(昭和57)年7月15日付「朝日新聞」夕刊からの孫引き。

「自粛ムード」も含めて、国家の役割は祭儀にある。

卑弥呼の時代から政治は「まつりごと」であったことを思い出したい。

国家の非合理さには、実は「生産的な蕩尽」という側面があるのだろう。

そう、国家は絶えず祭儀を提供する装置でもある。

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追記

本書後半にも出てくるが、天皇崩御の際などの「恩赦」。
これまで計7回実施されている。
(昭和天皇崩御の際には行われておらず、戦後の「国連加盟」以降の実施はない)。

刑を言い渡すのが国家(=天皇)であり、
刑を許すのもまた国家である。
(象徴的には、誰を生かし、誰を死なせるかも決定できることになる)
フーコー的な権力理論を、文字通り本書では示しているのである。

斎藤環『承認をめぐる病』

「俺って、そういうキャラじゃないから」。

無意識の内に、こんなセリフをいうことがあります。

本来なら、「そういうガラじゃないから」というべきところでしょう。

私たちは日常的に「キャラ」や「キャラクター」という言葉を使うようになってきています。

さて、「キャラ」ってなんでしょう?

Webサイトの日本語俗語辞典http://zokugo-dict.com/07ki/cara.htmでは「キャラ」のことを次のように解説します。

キャラとは英語の“character(キャラクター)の略で、character同様、個性・特性、性格を意味する。また、character(キャラクター)の略として、漫画や劇の登場人物、配役という意味でも使われる。「キャラがかぶる」「キャラが立つ」といった使用の他、「アニメキャラ」「ゆるキャラ」「萌えキャラ」などに見られる。

 「ガラ」というのは、人柄の略です。

人柄は、言ってしまえば人それぞれ。

 それに対し、「キャラ」には限られた種類しかありません。

「いじられキャラ」「関西弁キャラ」「天然キャラ」「すべりキャラ」などなど。

TVのバラエティ番組における各タレントの役回りが、日常の中に入ってきているような感じです。

 本書『承認をめぐる病』では、いまの若者が「キャラ」によって人間関係を成立させていることを指摘します。

 いまの社会では、「コミュニケーション能力」に評価尺度が一元化しています。

そのため、「コミュニケーション能力」(=「コミ力」)の低い「コミ障」は絶対的に低い地位に心理的にも経済的にも追いやられてしまいます。

 それを回避するため、「キャラ」という想定可能な人間関係の型を用意するのです。

それにより、「こういうキャラにはこういうコミュニケーションの仕方をする」というハウトゥが成立しています。

 ただ、本来のコミュニケーション能力は、内田樹がいうように、〈コミュニケーションが出来ない相手とコミュニケーションが出来る力〉であるはずです。

 「コミ力(こみりょく)」が重視される割には、貧しいコミュニケーションしかできていない今の日本。

「なんとかする」には、いろんな方法があります。

 (1)キャラクターの種類をほぼ無限まで広げる・・・一人1キャラクターになれば、それは「個々人の個性の言い換えがキャラクター」になる。それを目指す。

 (2)「あなたのコミュニケーション能力で全てではないですよ。もっと違うコミュニケーションの仕方が有りますよ」といい続けていく。

 (1)はさすがに手間と時間がかかります。

とすれば、学校や社会の役割は「あなたの考えているコミュニケーションとは違うカタチのコミュニケーションがあるんですよ」といい続けていくことでしょう。

古臭い言い方になりますが、携帯やスマートフォンのLineTwitterとは違う、「夜通し日本の政治について真剣に語り合う」「寮で夢を語り合う」ような「汗臭い」「アツい」コミュニケーションの存在を語っていくことが必要でしょう。

内田樹のように、ユートピアとして「昔はもっといいコミュニケーションがあった。これから、その頃のコミュニケーションを復興しようではないか」と遠い目をして語りかけて。(『街場の教育論』)

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バランスボールというメディア。

私の勤務校には、いまいくつかのバランスボールが転がっています。

職員室に置いてあり、休み時間にはけっこういろんな生徒がバランスボールで遊んでいます。

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単に使うのではなく、イスとして使う生徒もいます。

バランスボールを通じ、学年や年齢を超えて交流をする姿が印象的です。

そこを見ていると、バランスボールが文字通り「メディア」として機能しているさまを見ることが出来ます。

メディア。

つまり介在するもの。

一般にいうメディアはテレビや新聞などを指しますが、本来の定義はもっと広いものです。

カナダの学者・マクルーハンは〈メディアは身体の拡張である〉と述べました(『メディア論』)。

彼の定義を用いれば、身体を広めるものであれば「メディア」の条件に適合します。

バランスボールという一つのアイテムが、人と人とをつなぐもの(=メディア)としても機能するのです。

単に自宅にあるだけでは「自分だけ」で終わっていたアイテム。それが「いろんな人がいる」場所にあるだけで、それで遊んだり、エクササイズを一緒にしたり出来てしまう。

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単に自分で持つのでなく、いろんな人と共有することの意味を、学校のバランスボールを見るたびに感じています。

「自己啓発」はあなたを不幸にする!〜リチャード・ワイズマン, 2009,『その科学が成功を決める』文秋文庫〜

「私は自己啓発で勧められている方法の中には、科学的にかなり疑問のあるものもあると話し、自分を変えられなかった挫折感がどれほど精神的に人を傷つけるか説明した」(12)
社会人として働くようになると、まわりに「自己啓発オタク」が多数存在することに気づくようになる。
かく言う私も、どちらかというとその一人である。
しかし、そんな「自己啓発」を、科学的調査をもとにワイズマンは批判・検討していく。
個人的に面白いのは、次の話。(下線部は引用者)
「1953年に、ある研究チームがイェール大学の高学年の学生に面接し、うち3%の学生に人生で達成したい目標を書き出してもらった。20年後、同じチームが追跡調査をおこなった結果、目標を具体的に書きだした3%の学生のほうが、書き出さなかった97%のクラスメートより成功していたという。感動的な話であり、目標を立てるとそれが力になる実証例として、自己啓発の本やセミナーでよく引用された。だがこの話には小さな問題が一つだけあるーー現在わかっているかぎりでは、この実験が実際に行われたという形跡はないのだ。」(10)

なんだそりゃ!そりゃないぜ、の世界。
実際、自己啓発の世界はウソ・偽りが氾濫している。
本書ではないが「メラビアンの法則」なんかまさにその一つ。
閑話休題。
本書はいろんな「自己啓発」を批判的に見ていく。
「イメージトレーニングは逆効果」
「プラス思考が人生を暗くする」
「褒められて育った子どもは失敗を極度に恐れるようになる」(いずれも目次より)
そして科学的に実証された方法を提唱していく。
例えば「幸せ」になる方法として。
「微笑む」(43)・「背筋をのばす」(同)・「楽しげにふるまう」(44)
・・・なんかアランの『幸福論』にもあるものであるが、ウソ・偽りの自己啓発に批判的眼差しを持っていくという意味で重要な本ではある。
本書の「おわりに」に、「59秒でできる10のことがら」(317)が書かれている。
いずれも科学的に実証された、「幸せになる」方法である。
「感謝の気持を育てる」
「財布に赤ちゃんの写真を入れる」
「キッチンに鏡を置く」
「職場に鉢植えを置く」
「二の腕に軽くふれる」
「パートナーとの関係について本音を書き出す」
「うそを見抜くときは目を閉じ、相手の言葉に耳を傾ける」
「子どもをほめるときは、才能ではなく努力をほめる」
「成功した自分ではなく、前進する自分をイメージする」
「自分が遺せるものについて考える」
・・・「え?」と思うものもあるが、概ね「そのとおりだな」という物が多い。
さて、著者は『運のいい人、悪い人 運を鍛える四つの法則』のリチャード・ワイズマン。
心理学者でもあり、マジシャンでもあるという変な研究者。
そして私のあこがれの研究者でもある。
ワイズマンのいいところは話が具体的なところ。
そして小ネタが異常に多いこと(これは私の授業のやり方でもある)。

小ネタ例:
「バンパーのステッカーで危ないドライバーを見分ける」
「ステッカーの数が多いドライバーほど前の車両にぴったりつけたり、追突したりするなど攻撃的な運転をすることがわかった」(314)
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・・・・・・・・
あえて言うのであれば、私は「自己啓発」本が好きである。
それはリポビタンDに近い。
健康になるためにリポビタンDを飲む人はいない。
つかの間の「元気」のために飲むものである。
自己啓発本はそれに似ている。
いっときのやる気・つかの間の成功感・自己効力感を味わえるからだ。
そして自己啓発本は水泳の本にも似ている。
プールに行かないで水泳のコツを読んでも、本質的には役立たない。
しかし、「水泳ができるようになった気がする」ようになる。
畳の上の水泳、まさにイメージトレーニング。
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本質的な「成功」は、むしろ自己啓発本の外に存在している。
自己啓発本で読んだ内容を実践するか否か。
その単純なテーゼに、私はいつ気づくのだろう。

 

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