wordpress.comで日本ノマド・エジュケーション協会のサイトを運営していたとき、
私は高校教員でした。
そこを退職し、「個人事業主」となったいま。
有料のサーバーを借りて「日本ノマド・エジュケーション協会」新サイトを運営中です。
こちらからリンクを貼っております。
ぜひ新サイトの方もよろしくお願いします。
そして、また新たにお越しいただければと思います。
wordpress.comで日本ノマド・エジュケーション協会のサイトを運営していたとき、
私は高校教員でした。
そこを退職し、「個人事業主」となったいま。
有料のサーバーを借りて「日本ノマド・エジュケーション協会」新サイトを運営中です。
こちらからリンクを貼っております。
ぜひ新サイトの方もよろしくお願いします。
そして、また新たにお越しいただければと思います。
みなさん、いつも本ブログをご覧下さり、ありがとうございます。
おかげさまで、日本ノマド・エジュケーション協会のWebサイトをレンタルサーバーに移行することが出来ました。
アドレスに「.wordpress.com」と付く無料ブログから、
独自ドメインの本格サイトに切り替えました!!!
ぜひ今後はこちらでご確認いただければ幸いです!
今後共日本ノマド・エジュケーション協会の活動へのご理解・ご協力のほど、よろしくお願いします!
2/7(土)、第3回となる発信型勉強会オビゼミ!(vol.3)「セーフティネットを考えよう」を開催しました。
社会にあるセーフティネットには何がある?
セーフティネットを「自分事」にするにはどうすればいい?
ワークショップの形で議論しながらまとめていきました。
ワークショップのいいところは、一方的に聞くだけでなく、いっしょに答えを考えていけるところ。
議論の成果はこちら。
とてもにぎやかなイベントとなりました!
次回は3/3(火)、19:15-20:45、とかちプラザ306号室にて実施します!
ご参加希望の方はnomad.education.japan@gmail.comまで!
☆まとめてくださった大平さん、ありがとうございます。
ネットでリンク欄を辿っていく。
一定の確率で、「1年以上更新されていないブログ」や「リンク切れ」に出会います。
そのたび、なぜか行き場のないやるせなさを感じてしまいます。
この感じは、観光でいった地方都市のシャッター街をみるのと近いです。
シャッター街は、少なくともその地に「商店」が存在したことを証明します。
シャッター街よりも残念なのは、コインパーキングだらけになった歯抜けの商店街と、東京の下町の商店街などで「シャッター」自体をなくし、その場を住宅として普通に住んでいる場合です。
シャッター街には、まだ「地域活性化」なり「空き店舗事業」なりの「何とか出来るかも感」が残っているからです。
さて、さきほど更新のないブログをシャッター街に例えました。
そうです、更新すればブログは「地域活性化」なり「空き店舗事業」なりに化けることができるのです。
更新していないブログは、流れの淀んだ池と同じです。
ただ腐っていくのを見ていくだけです。
そんなブログに、少しでも流れを入れていく。
「地域活性化」と同様、人の流れのないところに流れを入れていくことで、新たな価値が発見されることもあるはずです。
哲学。
もともと私は哲学を〈世界観をそれぞれの視点に基づいて理論化したもの〉だと思っていた。
そのため、知り合いから「教育の原理論・目的論を現象学を用いて哲学を確立した人がいる」と聞いた時、「そんな人はいない」と即座に思った。
ちょうど私がラディカルな思想家イバン・イリイチ研究を大学院でやっていこう、と思っていた時期のことである。
ちゃぶ台返しの得意なイリイチ(写真)は、「学校」を否定し、晩年には「教育」を否定する。
そして資本主義社会が、貨幣化出来ない「シャドウ・ワーク」によって支えられている点で、本質的に不平等であることを明らかにした。
イリイチにかぶれていたからこそ、よけいに教育の原理論・目的論の確立などということは「不可能」と思っていた。
しかし。
本書の著者・苫野一徳氏はそれをやってのけている。
方法論は現象学。
「自由とはなにか」
「誰もが納得できる原理論はなにか」
「教育で言うならば〈ゆとり教育か詰め込み教育か〉という〈あれかこれか〉の議論よりも、〈教育の本質的な目的はなにか、そのために何ができるか〉を目的状況相関的に判断することが必要」
・・・明快さを備えた議論を繰り広げる『どのような教育が「よい」教育か』を読んだ際、目が覚める思いがした。
さて、本書は「教育」ではなくさらに範囲を「そもそも」論に持って行き、「自由」について議論する内容。
『どのような教育が「よい」教育か』は、「自由の保障と自由の相互承認」をキーワードに教育を解き明かしていたのに対し、本書では「自由の原理論」それ自体をさぐっていく。
しかも哲学のジャーゴンを抑え、解明に。
わたしたちは、諸欲望によって規定されながらも、なおそこにおいて「我なしうる」と感じられることがある。わたしたちが「自由」を感じるのは、まさにそのような時なのだ。(81)
日々、わたしたちは様々な規定性の中を生きている。しかしその上でなお、この諸規定性を乗り越えた時、あるいは乗り越えられるかもしれないと感じた時、わたしたちは「自由」を感じる|ことができるのだ。(82-82)
欲望の対象は様々だが、どのようなものを欲するにせよ、わたしたちはそのような欲望を持ってしまっている時点で、常にすでに「自由」を欲している。諸欲望に規定されているということは、つまり同時に、この諸規定性から「自由」になりたいと欲しているということなのだ。
これが、人間的欲望の本質は「自由」であるという言葉の意味である。(89)「自由」の本質は特定の状態にではなく、わたしたちの”感度”にあるのだ。繰り返し述べてきたように、「諸規定性における選択・決定可能性」の”感度”、これこそが「自由」の本質なのだ。(102)
「自由」について考察するだけでなく、政治・経済などの分野での社会構想に「使える」原理を出していく。
このことは、やっぱり凄い、と思う。
☆余談ですが、苫野さんとは大学の学部学科、大学院の研究科も同じ、文字通りの先輩にあたります。うちの教育学部も、なかなかやるもんです。
「20人に1人」LGBTを知っていますか?
みなさんの身の回りにはLGBTの当事者はいますか?
LGBTとは、レズビアン、ゲイ、バイセクシャル、トランスジェンダーの頭文字を取った性的マイノリティ(性的少数者)の人たちのことを指した言葉です。
電通総研が7万人を対象にした2012年の調査によると、5.2%はLGBTの当事者であることがわかりました。つまり約20人に1人は存在するということになります。
20人に1人ということは40人クラスであれば2人はLGBT当事者がいるということです。では、なぜその存在は気づかれにくいのでしょうか?
要因の一つとして「カミングアウト」の問題があります。
カミングアウトとは、家族や友人、先生など、身近で親しい間柄の人に、異性愛者ではないことを伝えることです。
いわゆる「オネエ系」に代表されるように日本では、LGBTが嘲笑の的になりやすく、そういった環境に置かれた当事者たちは、「偏見の的になるのではないか」「今までの関係性が崩れるのではないか」という不安から、なかなかカミングアウトできずにいることも多いようです。そのため、なかなか存在に気づきにくいのです。
異性愛的な価値観を前提とする社会において、LGBT当事者はそれぞれの生きづらさを抱えています。
たとえば、思春期になると、周囲で恋愛の話や異性関係の話が頻繁に出てきますので、自身のセクシュアリティ(性のあり方)について強く意識するようになります。
こうした中で、カミングアウトのできない当事者は、異性愛者として振る舞うことを余儀なくされます。そこから葛藤やストレスが生まれ、ますます孤立感を深めてしまうという悪循環に陥りやすくなります。
では、こうした生きづらさを解消するためには、どのような方法があるのでしょうか?
一つの方法として、周囲からLGBTへの肯定的、受容的な環境をつくることが挙げられます。
具体的にはLGBTへの理解、支援をする人たちを「Ally(アライ)」を増やしていくことです。Allyの人が周囲の人々にLGBTに対する肯定的な態度やメッセージを発することで、徐々に理解が深まるのではないかと思います。
今回、こうしてブログでLGBTに関する情報を発信することで、Allyの人が増える小さなきっかけになるかなと思って書かせていただいております。
大平亮介
「自由」はもはや時代遅れの価値になってしまったのだろうか?
わたしはそうは考えない。むしろわたしの考えでは、「自由」に代わる価値をいくら提示したところで、それは常に「自由」の一条件にすぎないものである。(…)あえていいたい。「自由」はわたしたち人間にとっての、最上の価値である。だれもが「自由」を欲している。そしてわたしたちにとって、それ以上の人間的価値はない。(7)
「フリースクール」や「自由な学び」が好きな私にとって、「自由」についての論述は非常に心惹かれるものです。
ちょうど、2/28(よく考えると、この日は著者・苫野氏の誕生日でもある)の「読書会@札幌-帯広」で議論する内容なので本書を読んでいます。
人間は、生きていると「自由」を本質的に求める存在。
そして、「自由」こそ、人びとの幸福を実現する概念でもある。
読書会を通じて、この点を今一度確認したいと思います。
「自由」の本質などあり得ない、それは多義的かつ操作可能な概念である、というのは、現代思想の常套句だ。しかし、言語の多義性・操作可能性は織り込み済みの”前提”であって、わたしたちはその上でなお、その”本質”を明らかにすることができる。わたしたちが様々な言葉(概念)を通してコミュニケーションを行い、そしてそこに何らかの了解可能性を「確信」「信憑」している以上、わたしたちはその概念の”共通意味本質”を、必ず直感しているからだ。それゆえわたしたちは、その内実を深く洞察する必要がある。(69)
本「日本ノマド・エジュケーション協会」ブログですが、
基本的に事務局長の個人ブログとなっていました。
ですが、今年からは「日本ノマド・エジュケーション協会」の活動に協力してくださっている方にも、記述をお願いしていこうと思っています。
その流れで、大平さんによる「セクマイ講義」(=セクシャル・マイノリティ)を連載していただく運びとなりました。
ぜひ、ご覧いただければ幸いです!
いつでも・どこでも学ぶ。
それがノマド・スタディ。
日本ノマド・エジュケーション協会として、それを実践していきたい、と思っている。
ビジネス書には今も昔も、10~15分ほど、あるいはそれより短い時間の「細切れ時間」「スキマ時間」に学習する、という姿勢が多く現れている。
いつでも・どこでも学ぶためのアイテムには何があるのだろうか?
▼情報カード・・・梅棹忠夫『知的生産の技術』の時代からある情報処理の定番。
いまだに高校生は「単語カード」を使っている。
私も高校生時代は「京大式カード」というA5サイズのデカイ情報カードに覚えたい内容を書き、持ち歩いていたものだった。
すぐに読め、どこでも見れるので、まさに「ノマド・スタディ」だった。
▼iPodなど音楽再生機・・・手や目が空いていないくても、耳が空いていることは多くある。そんなとき、耳につけるだけでオーディオプログラムが聞ける。
これらはすごく役立つものである。
しかし、これらには一つの落とし穴がある。
信号待ちの時間、エレベーター内や事務所の待ち時間でノマド・スタディをすることは陶酔感をもたらしてくれる。
「おれはすごく勉強してる!」
「偉い!」
そんなささやかな感情を学習者に与えてくれる。
勉強の結果が出なくても、勉強による「見栄」をはれるという効果がある。
しかし、問題なのはそれで勉強した気になってしまうところである。
ノマド・スタディは人に学習する機会を与えてくれる。
しかし、それで満足してしまう弊害もある。
そうであるならば、あえて「細切れ時間」「スキマ時間」には何もやらず、「やらないとヤバイ」という切実感を自分に与え、家でガッツリ勉強することが役立ってくる。
そんな逆説もある。
自習室に居ると、なぜか勉強が進むのはなぜだろう。
高校時代、よく学校の自習室に行っていた。
図書館だと、「本」の誘惑がある。
家では「布団」の誘惑がある。
そんなわけで、自習室のカビ臭い香りを嗅ぎながら勉強をしていたものだった。
昔から私は一人だけではあまり勉強する気が起きなかった。
でも、近くに誰かが勉強している自習室では学習が進んでいた。
最近には「有料自習室」も多く存在しており、「月8000円で使い放題」というところもある。
社会人になってからも自習室は求められている。
なぜ、一人では学習は進まないのだろう?
なぜ、近くに勉強している人がいると学習が進むのだろう?
私がよく言う話だが、勉強の困難さは「インプットと結果が出るまでの期間の長さ」によって起こる。
英語を勉強した翌日、英語がペラペラになっていれば誰でも英語を勉強する。
漢字を1日でも勉強しないと、翌日漢字が書けなくなっているのなら、誰でも漢字を学習する。
なぜか?
それは「インプットと結果が出るまでの期間の長さ」が短いからだ。
1日真剣に勉強しても、結果が出るのは先である。
手応えがない。
そのため、「まあ勉強しなくてもいいか」となっていく(行動分析学)。
一人では学習が進まないのは、一人で学習するよりも遊んだり寝たりするほうが楽だからである。
「自習室」は、そこに「ただ近くで勉強している他者」を与えてくれる。
一人で勉強することはつまらない。
しかし、他者がいることで「自分はこれでいいのか」という視点が入る。
自習室でただ他者が近くにいる(=共在状況)ことにより、視点がメタ的になるのである。
自習室で勉強が進むのは、自分をより高い場所から見つめた「メタ視点」が提供されるためである。
他者がただいる。
それだけで人はメタ視点が内包される。
自習室はそんなことを教えてくれる。